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真理と先入観・固定観念

愛媛県松山市の整体院 健優館です。

歴史的に長く続いている宗教の場合、その創始者の認識においては適切な意味を持っていた言葉も、後継者がその意味を内観によって知るのではなく、外側から得た知識(観念)として自己流に解釈したり、組織が巨大になっていく宗教団体が免れることが難しい、自己保存の意図や様々な地上的、人間的事情で、人工的な余計な物に埋もれていくという、共通の経過をたどります。

特にイエスや釈迦をはじめとする偉大な先達は、聞き手の言葉の表現力や理解力の程度にあわせる目的で例え話を多様したために、その本来の意味が長い歴史にわたって誤解されてきたということが多々あります。

ヒンズー教の「モクティ(解脱)」、仏教の「悟り」、キリスト教の「聖霊が降りる」などの言葉は、いずれもひとりひとりの人間すなわち個別化された肉体を通して、宇宙の叡智(えいち)をあらわす普遍意識が自覚に至ることを意味しています。

それはあらゆる問題を窮(きわ)め尽くし、全ての答えを手中に収めた状態ですから、これを学問の研究対象にして観念の世界であれこれ推測するというのは、まさに迷妄そのものになります。

真理と理解は別

仏教に関して言えば、釈迦大師が知っていた真理と、弟子たちが持っていた理解は別に扱わなければなりません。

釈迦大師が何ら経典を書き残さなかったのもかかわらず、後世に人たちが自分の個人的な解釈で経典を造り上げ、それがインドから中国、そして日本へと伝わる間に変化していき、鎌倉時代に仏教哲学の観念体系が造られたことなど、様々な変容を経ています。

今日の仏教として扱われている考え方のほとんどや、キリスト教として受け取られている教義の大半が、釈迦大師やイエス大師の教えとは、大きく異なっているという事実もあります。

ですから、個人的な解釈・偏見ではなく、本質に触れ、その正しい本質に自分で気づくことが大切です。

悟りとは? 松山市の整体院 健優館

仏教では「全てのものが仏で在る」と教えています。

善人も仏であり、悪人も仏、山や川や草木、魚や動物全てが仏であるという真理です。

ところが、曹洞宗の開祖、道元は若いころこの教えに対して「全てが仏で在るなら、この自分も仏で在り、すでに自分が仏そのもので在るなら、修行によって仏に成るなどということはないはずだ。ならば、なぜ修行する必要があるのか?」という疑問を持ちました。

この道元自身は、あるとき座禅の最中に、隣に座っていた修行僧が居眠りをしていて警策(けいさく)で叩かれ、「大事な修行の最中に居眠りをしているものがあるか!」と叱られている言葉を聞いて悟ったというのですが、その理由については説明を全く省いています。

これは悟りというものは個人的な体験であり、悟りそのものは普遍的なものであるにも関わらず、そこに至るきっかけというのは、その人にとってのみ意味があるものだと言うことがあります。

また悟りは通常の思考を超越した意識状態であるために、悟ってない人には、説明をする必要などあるはずがないという原則を道元が完全に理解していたからと言えます。

真理を悟るとは? 松山市の整体院 健優館

宇宙そのものが自分自身を認識するために、現象の世界に形をとってあらわれてきたものが、修行中の人間の姿です。

ですから、修行とは、現象の世界で自分自身を認識する行為(自覚)であり、宇宙全体の偉大なる創造活動と一致する行為ということになります。

なお、修行という言葉は、サンスクリット語では、「気づく」という程度の意味であり、努力をともなうというニュアンスはありません。

「真理を悟る」と言う言葉の意味は、私たち人間の本質が、この宇宙全体を創造している、大いなる生命そのものであるという真理を、意識の体験として知ることであり、知識として知ることではありません。

これはひとりひとりの人間が、普遍意識の状態を自覚したときの内部感覚として生じるもので、外側からどのような手段を使ったとしても、この体験は証明できません。

こうした状況は、客観性はまるでないように思われるかもしれませんが、実際は逆で、私たちの心が外側の世界という虚像を造り上げて、それに囚われている(現実だと思っている)様子を、ちょうど空から見降ろすように客観視できる意識の状態(普遍意識)が、人類の次の発達段階としてあり、この本来の意識状態になって初めて、実際にあるもの(真理)と、心の創作物(仮相)との識別がなされます。

論理的証明は、すでに確かであると合意のできているものを根拠にして、証明したいことの間に矛盾が生じないように道筋を立てるという作業が基本ですから、全てのものの本源、唯一確かなものである実在(真理)を、結果に過ぎない現象から証明しようというのは、話が逆さまになっている状態です。

「真理は、真理自らをもって真理ならしめるもの」であって、外側のものから証明できるようなものは真理ではないといえます。

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地球人は特殊な存在?

地球人類の平均的な意識は、ほぼ物質的バイブレーションの世界と、それに関わることで生じる感情や思念の精神活動に集中されていて、地球生命系という宇宙の中でも極めて特殊な生命の表現の場を構成しています。

なぜ特殊なのかといいますと、地球では長い歴史にわたって「ほとんどの人が普遍意識を自覚していない」という現象が起こっているからです。

この現象を別の言い方で「分離感を持つ」とも表現できます。

「分離感を持つ」とは、ひとりひとりの人間が自分と他人もしくは自分と外の世界とが、全く別々の存在であると信じ込んでいるような意識の状態が造り出されていたことを指します。

人間は周囲から独立した個人ではない

この分離感、つまり「周囲から独立した個人」という感覚が生じるのは、私たちの多くが物質世界という幻影の枠組みの中にどっぷりと浸かっていて、ひとつの肉体によって制限された意識の状態で外の世界を認知していたためです。

そしてこのようにして造られる世界観が、肉体の五感から入ってくる情報のために本来の状態から制約されている特殊なものの見方にもかかわらず、それ以外の視点に立った経験が意識の表面には全く上がってこないために、客観的な把握ができなくなっていたからです。

この事情をはっきりと理解できるのは、私たちひとりひとりが「普遍意識」を自覚した時であり、かつ、そのときに限ります。

ですからこういった情報も、あなたが普遍意識を自覚するためのヒントやキッカケに過ぎません。

この普遍意識へのヒントやキッカケに「気づき」、「行動」できる人がひとりでも増えるほどに地球全体の意識のレベルが上がっていき、ひとりひとりがより幸せを感じる世界になっていきます♪

あなたと私は別の人間ではない?

意識というものは、ひとりの人間の肉体の脳を構成する細胞や、そこに生じている電気的、科学的変化など物質的レベルの現象に起因するのではなく、宇宙の一切の出来事の原因である、「唯一の生命」のひとつの側面です。

つまり様々な個体(個人)に、独立した生命や意識が生じているのではなく、唯一の生命が様々な個体(個人)の中に同時に現れているのであり、この生命のひとつの側面である意識もまた、唯一つの意識が様々な個体(個人)を通して同時に表現されているのです。

幽界とは?

フーテンの寅さんのセリフで「俺とお前は別の人間だよ。早い話が、俺が芋を食ってお前が屁をこくかい?」というものがあります。

ほとんどの人がこの感覚・意識レベルで生活されています。

なぜそうなるのかといいますと、物質的バイブレーション(物質世界)とその近辺の波動領域において、唯一つの意識が、様々な個的表現の媒体(個人)に焦点を合わせる特殊な事情のために、それぞれが独立した意識であるかのように知覚される錯覚が生じるからです。

この制約された意識による錯覚のために、本来は自分自身であるものを、独立した他の存在として、現象化した外部に見るような関係を造り出してしまいます。

本来の精神階層に、このような分離した意識状態というものは存在していないのですが、地球の波動領域では、物質的バイブレーション(物質世界)の世界観が絶えず想念として反映され続けているために、時空間や他から分離した個体(個人)があたかも実際に存在しているかのように見える、地球独特の表現世界が生じています。

このような正しくものを観ることができない状態の意識で知覚される外の世界のうち、物質レベルを除いたものを一般に「幽界」と呼びます。

個人とは映画のよう

意識の本来の状態においては、個人とか、個体としての意識というものは存在していません。

しかし、物質的バイブレーションとその世界観が反映されている波動領域では、現象として生じている外側の世界から、個々の肉体の知覚器官を通して入ってくる様々な情報によって、肉体やエーテル体、アストラル体からメンタル体に至る各波動領域の媒体に、反応としての波動が生じます。

このとき個人もしくは個体を表現している媒体には、その個的表現媒体が外界との関係で経験してきたあらゆる出来事が、すでに波動として刻印されていますから、新しく外界から入ってきた情報は、その個的表現媒体の過去の経験によって参照されて、習慣的な意味を持つことになります。

この反応を参照している意識の側から見れば、身体的感覚や感情の動き、あるいは想念の働きが統合されて、あたかもそこにひとりの人間、つまり「個人」が存在しているかのような感覚が生じます。

このように個的表現媒体に意識の焦点が合っている状態では、五感から入ってくる物質的レベルの情報が極めて粗雑なために、分離が生じていない本来の意識は、五感の雑音にかき消されるようになります。

この仕組みは、映画がスクリーンに投影された映像でしかないにもかかわらず、映画に夢中になっているときには、物語に引き込まれ喜んだり、泣いたり、ハラハラさせられて、スクリーンに写された世界が現実であるかのように感じられることとよく似ています。

自我(パーソナリティ)とは「仮面(ペルソナ)」

現象的に個人を表現している制約された意識の状態を、自我(パーソナリティ)と呼びます。

自我(パーソナリティ)とは、ラテン語で「仮面(ペルソナ)」からきた言葉で、自我(パーソナリティ)は物質的バイブレーションとその波動領域において唯一の意識を他の個的表現と分離、区別させるための特殊な表現様式なのであって、参照する波動領域が異なれば全く違う様相を見せる、相対的な現象にすぎないものです。

「他から分離独立した個人の存在」という固定観念

「他から独立した自分」という感覚を私たちがあまりにも現実的に感じられるのは、単に個人として、その場に現象化している意識の状態だけによるものではないんです。

これは五十億人を超える地球人類が、何十万世代にわたって、あらゆる表現を「他から分離独立した個人の存在」を前提に行ってきたために、地球上で行われた精神活動(感情や想念)は個人という分離の波動を含み、これらの分離感が地球の精神階層に形成し続けてきた強力な固定観念のエネルギーに、地球上のほとんどの人間の心が支配されていることが最大に原因です。

普遍意識(真我)が精神的な次の進化へつながる

分離感から、個人や社会、民族や国家、多様な固定観念が派生してきます。

この制約されたものの見方から自分を解放し、外の世界にただ反応しているだけの心の動きの一切から離れると、その瞬間に自分自身が宇宙全体の唯一の生命そのものであり、あらゆるものを創造している主体であるという真理を、絶対的な確信を持って実感できる本当の意識状態に戻ります。

この体験が普遍意識(真我)が自分自身を自覚するという状態で、地球人類の精神的な次の進化段階に当たり、自我の心によって造りだした迷妄に振り回されていた幼児期から、あらゆる物事を正しく観ることのできる本来の意識状態に目覚める、意識の夜明け、人類の黎明を迎えることになります。

十方無限世界すなわち我の身体なり

人類の精神的進化の魁(さきがけ)のひとりである釈迦大師が「十方無限世界すなわち我の身体なり」つまり「宇宙は私自身である」と言ったのは、普遍意識が釈迦を通して自覚に至り、真理を悟っていたからに他なりません。

ちなみに「十方」とは、東、東北、北、北西、西、南西、南、南東の八方向に上下方向を合わせたもので、広がりを意味しています。

また「世界」とは華厳経(けごんきょう)からきた言葉で、その意味は「世」が過去・現在・未来の時間を表し、「界」が空間を表しています。

言葉の真の意味を理解する

ヒンズー教にアートマンという言葉があります。

このアートマンが「我(が)」と訳されたために、我の存在を否定する仏教とは対立する概念として扱われてきた経緯があります。

アートマンは本来、宇宙の意識であるブラフマン(普遍意識)が個人の内にあらわれてきたものを指す言葉であり、仏教で使われている我は「自我」つまりパーソナリティの意味で使われているものですから、普遍意識が実相で自我は現象にすぎないという同一の真理を、両者は異なる表現で示しているだけなのです。

これと同じで、キリスト教で用いる「愛」という言葉は、仏教でいう「慈悲(じひ)」に相当します。

仏教では、利己的な執着の意味で使われる「愛」とは区別する必要があります。

また日本神道(古代日本に起源をたどることができるとされる宗教)では、「愛」を「命」と言います。

これらの言葉は受け取る人によって様々に異なった意味が生じてきますし、単に言葉の真の意味を理解していなかっただけで、異なる宗教間の対立を引き起こした事例も数多くあります。

言葉は便利ですが、その分うまく使えないとややこしい面もあります。

このような形をもっていない言葉を使う時には、十分に注意を払う必要があります。

特に「神」という言葉は、その実相については誰ひとりとして知っている人はいないにも関わらず、あらゆる人々がこの言葉を自分の勝手な考えで使うので、様々な混乱が生じています。

「神」「真理」「生命」「霊」「大いなる心」「実在」「愛」「叡智」「エネルギー」「摂理」「法則」「宇宙」といった言葉は、自分の心で造った観念ではなく、心を透明にし、それぞれの言葉の最初の響きを感じ取ることが大切です。

生きることに違和感を感じているあなたと共に歩む整体院

当院では、体のバランスが調和するとともに、心に癒しのヒーリング効果のある不思議な整体を行っています。

つまり、心と体の両面にアプローチし、より深い部分から楽になる整体です。

ちょっと不思議な話ですが、自分や人生、目の前の現実に感じる違和感は「あなたがあなた本来の生き方を取り戻すため」に発生します。

言いかえると、今のあなたの生き方は、本来のあなたの生き方とズレていますよ、と教えてくれている体からのサインと言えます。

あなた本来の生き方とは、頭で考えた生き方ではなく、心で感じる生き方です。

過去の後悔や未来の不安ではなく、今この瞬間の喜びを生きる生き方です。

違和感やストレスを感じる生き方ではなく、絶対的な安心感の中、楽に楽しく生きる生き方です。

ですが、苦しい経験があるからこそ、うれしい経験を感じることができます。

悲しい体験があるからこそ、喜びの体験を味わうことができます。

苦しさや悲しさは、人生を味わい深いものにしてくれる最高のスパイスだと言えます。

そんな意識で、どんな自分も受け入れ、認め、許し、愛することができたとき、あなたが本来のあなたを生き始めるきかっけにつながります。

松山市の整体院 健優館は、整体を通して、心・体・生活習慣・環境が調和するお手伝いをし、あなたが人生を生きることが楽に楽しくなりあなたらしく輝くお手伝いを全力で行っている整体院です。

単に症状が改善するだけの場所ではなく、あなたが本来のあなたの生き方に気づき、本来のあなたの生き方を取り戻す場所を追求しています。

あなたという存在は、この世界、この宇宙でたった一人しかいないオンリーワンの存在です。

自分は貴重で、素晴らしくて、すごい存在なんだということに気づき、どんな自分にもOKを出せるようになると、あなたの人生そのものが好転する可能性を秘めています。

あなたは存在しているだけで十分価値がある存在です。

パズルに余るピースはないように、この地球という壮大なパズルもあなたというピースがなければ完成できないし、成り立つことができません。

自分のことを今より好きになり、自分を認めてあげましょう。

あなたは一人ではありません。

一緒に一歩一歩進んでいきましょう。

松山市の整体院 健優館は、そんなあなたにやさしく寄り添う整体院です。

まずはお気軽に電話やメールでお問い合わせくださいね。

このページを最後までお読みいただいた、ご縁のあるあなたのご来院を心よりお待ちしております。

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